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鳥紀行 フランス編




【03】 2004/04/17 パリ 2日目 戻る次へ


 cf. 《行程図 フランス編》 参照

§ 2004/04/17 (土) パリ 2日目
 目が覚めると、昨日とは打て変わって、雨模様であった。 今日は、美術館めぐりの予定であるから、かまわないが、肌寒い。 街を行く人もコート姿が多い。 出かけるときには、雨はやんでいたが、それでも、、雨具はかかせないだろう。

 ヨーロッパでは、少々の雨ぐらいでは、傘は差さないと聞いていたが、それは、当たっているかも知れない。 要するに、降ったりやんだりで、たとえ降ったとしても、大したことがないから、面倒くさいだけである。

 また、今回のフランス旅行(2004)の楽しみの一つは、表題にあるイエスズメに再会することだった。 次の 「イエスズメ」 の項を見ていただくと、当たり前のようにいるスズメに会いたい気持ちも、分かっていただけるでしょう。


§ イエスズメ
 スズメを飼っているせいか、以前、英国等で見かけたときも、パン屑を与えたりしながら、親しみを持って眺めたものだった。 そのとき、写真にも撮ったが、米粒ほどにしか写っていなくて、残念に思っていた。 米粒大ではチュンとの違いが分からない。


Iesuzume21
イエスズメ (♀)

Iesuzume11
イエスズメ (♂)

パリ市街
フランス
Photo by Kohyuh
2004/04/18

イエスズメ
分類       スズメ目 ハタオリドリ科
全長        L15cm
学名       Passer domesticus domesticus
英語名      House Sparrow

 実際、その写真からでは、日本のスズメと全く区別がつかなかった。 何しろ、バードウォッチング に興味を持つ以前のことだったから、種類が違うと聞いて知ってはいたが、スズメはスズメでしかなかった。 人懐っこいとか、ちょっとスリムでかわいかった、と云う具合に、思い込みでしか区別していなかった。

 だから、写真を撮るにしても、雌雄の違いなど意識していないから、かろうじて、スズメと分かる程度で満足した。 写っているのは、確かに、スズメであって、他の鳥と見間違うことはなかったからである。

 これまでは、それで不都合はなかった。 それが、今は違う。 違いが気になって仕方がない。 スズメを区別できることが基本の基と知って、なおさらだ。

 日本の スズメ  と違って、名前もイエスズメという。 また、雌雄で姿が異なることも分かった。 オスは、さすがに気が強そうだ。 私のチュン (連載 「私のチュン 」 の項を参照下さい) が見たら、それだけで気絶するかも知れない。

 しかし、見た目と違って、人懐こくて、足元まできて、餌を啄ばむ。 メスは雄と比べると全てが地味だ。 また、幼鳥も見たが、このメスを、もう少し幼顔にしたようで、区別は容易につくし、実に愛くるしい。



雌雄異色の訳?
 雌雄で外形が異なるのは、オスとメスの数のバランスが均等でないためで、目立たなければ伴侶が得られないからだといわれている。 ちなみに日本のスズメは、雌雄同色で、容姿からは区別できない。

 このイエスズメの15羽いた群れを調べてみたら、雌3羽に対し、雄12羽であった。 確かに、圧倒的にオスが多かった。 雄にとっては、厳しい現実だ。 やはり、目立たなければなるまい。




 金田敦男氏(日本鳥類保護連盟)から聞いた話だが、我々がよく目にするスズメは、稲の伝播ルートに沿って、稲と共に日本に来たという。 それまで、古くから日本にいた、ニュウナイスズメ  は、追われて、今では人里近くでは見ることができなくなってしまった。 スズメがニュウナイスズメを追い出したのである。

 一方、このイエスズメは、麦の伝播ルートに沿って麦と共に、ヨーロッパにやってきたらしい。 それが、近年の交通手段の発達に伴い、これまで自力で移動していたスズメの仲間たちも船などを利用して、日本にもやってくるという。

 このイエスズメ達が、日本にやって来るようになれば、今いるスズメも、追われる立場になるだろう。 身体も少し大きいし、何より、顔で負けそうだ。





§§ パリ見てある記
 今日から3日間は、美術館巡りである。 ルーヴル美術館、オルセー美術館、サント・シャペル、ノートルダム大聖堂、ポンピドゥー芸術文化センタ、それとヴェルサイユ宮殿が、その主な候補地でだ。

 
カルト・ミュゼ (Carte Musees)
 パリとその近郊にある美術館等の前売りの入場券で、1日券、3日券、5日券の3種類がある。 沢山回れば割安になる上、何より、現地で行列して切符を買わなくてすむ。 メトロの駅で買うことができるから、3日券を購入した。



§§§ ルーヴル美術館 Musee du Louvre
 ホテルからは、メトロ (Metro 地下鉄) は近いし、ルーヴル美術館 へは、地下鉄駅から入る方が、混雑が少ないと、ガイドブックには書いたあったから、願ってもない。 今日は一日で、ルーヴル美術館とオルセー美術館を、めぐり歩くが、好きな人なら、一週間はかかるコースであろうか。

メトロのルーヴル美術館駅 (Palais Royal-Musee du Louvvre) で下りて、賑やかな方向へ向かう人たちについていくと、否が応でも、ルーヴル美術館へたどり着くだろう。 何ヶ所かある入り口の中でも、迷わなくて、よいかも知れない。

 角を曲がると、目の前に、見覚えのある、あのガラスの逆ピラミッドが、シャンデリアのように、眼に入るから、期待感が尚更増す。 中々の演出振りだ。 当初、これが出来上がった頃、評判のガラスのピラミッドの写真を見て、何処がそんなによいのか、とも思っていた。 しかし、実際に、その場に立ってみると、なるほど、天井が高くて、広く明るい空間が拡がる様は、これしか選択肢が無いかも知れない、と思わせるものであった。

 インフォーメーションセンタでは、例を見ない程の沢山の国の言葉で書かれたパンフレットが置いてある。 もちろん日本語のものもある。 私の早回りの方法は、このパンフレットに記載されているものだけを見て回ることである。 人手をかけて、専門家が作ったパンフレット (pamphlet 小冊子) だ。 私が勝手に取捨選択して、ヘタに見て回るより、よっぽど良いに決まっている。

 小冊子だから良いのである。 これが、分厚い本格的な案内書であれば、俄か美術家では、たちまち知識不足に、自己嫌悪に陥ることだろう。


§§§§ ミロのヴィーナス La Venus de Milo
 私は、ルーヴル美術館と言えば、《ミロのヴィーナス》 を思い出す。 私が大学生のとき、東京オリンピックの開催を記念として、はるばる、日本にやってきた。 1964年の初夏の頃のことだった。 妹と二人で、京都市美術館へ観に行った。 あいにく小雨が降っていたが、傘を持って出かけた。
 
日本での公開日:
 1964/04/08-05/15 国立西洋美術館
 1964/05/21-06/25 京都市美術館

 美術館に着いて、更に驚いた。 長蛇の行列ができていて、あの大きな美術館を、確か一周ではなかったと思う、二三周していた。 それでも、並ぶしかない。 これほど有名な美術品も少ないであろう。 何しろ、教科書等でしか見たことがない、あのヴィーナスであるから。

 行列に並んで気がついたが、みんな傘を差しているから、雫が落ちてくる。 土砂降りの雨ではないのに、誰もが、身体の芯まで、ずぶぬれ状態である。 それでも寒くは無かった。

 三四時間は並んだと思う、やっと順番が回ってきた。 館内に入ると展示台に、スポットライトで照らされた、ヴィーナスがいた。 想像していたよりも、顔が小さく見えた。 その白い顔立ちも、予想を上回るほど白く、また、予想を上回るほど、美しく見えた。 まさに、宝石のように見えた。

 日本人の体形から、顔の大きさを、イメージしていたのかもしれない。 そして、丁度、その頃である、八頭身という言葉が出てきたのは。 今でこそ、日本人の体形もそれに近付いてきているのであろう、八頭身という言葉も死語に近くなっているが、当時は、それが美の原点であった。

 私が、そのときに記念に買った解説本には、目の位置から鼻の位置まで、およそ計測できるもの全ての、詳細な計測値も添えられていた。 数値的に、そのプロポーションがいかに均整が取れたものかを分析したのであろう。

 いまでは、美術品を数値的に分析するのも、どうかと思うが、気持ちは分からなくもない。 ただ、数値的に計測されて、お前は、美の観点から見て、90%の確率で、Cランクであると言われたら、誰でも面白くないであろう。

 ヴィーナスの周りを半円を描くように通路が設けてあり、立ち止まることは許されない。 ゆっくりと進むが、ものの十五分もかからなかった。 それでも誰もが満足げであったし、そんな時代であったのだろう。 私も、妹との二人だけの外出は、それが最初で最後だったと思う。

 ルーヴル美術館のヴィーナスは、広い長い廊下の一角に、特別室というものでもないが、それでも相部屋ではないところに、その座を占めていた。 それでも、禁止はされているが、手で触ろうと思えば触れるだろうし、ぐるりと回って、好きな角度からも、眺めることができる。

 あまりにもオープン過ぎて、これでいいのかと思うほど、そっけない展示である。 40年振りの再会というのに、あの感激が蘇らないのが悲しい。 どうしたというのだろう。 ヴィーナスは、何も変わってはいないというのに。 変わったとすれば、私の方になるからである。


§§§§ モナリザ mona lisa
 モナリザも日本に来たときに観た。 フランスが門外不出としてきたものが、初めて日本に来た。 それが、何処で見たのか、いつのことだったのかも、思い出せないでいる。 そして、超満員の薄暗い部屋の雰囲気だったことだけは、よく覚えている。

モナリザ
《Leonardo da Vinci 作の微笑をたたえた婦人肖像》
Mona はイタリア語で Madam の意、 Lisa は Florence の人 Gioconda 氏の妻の名
 by New College English-Japanese Dictionary, 6th edition (C) Kenkyusha Ltd. 1967,1994,1998



 ルーヴル美術館のモナリザも、その雰囲気と全く同じであった。 警備員が目を光らせているのも同じだ。 カメラが禁止なのは、このモナリザだけであった。 モナリザこそ、叶うことはないが、手元に置いて観ることができれば最高のものかも知れない。 逆に、そうでなければ、この混雑の中で、頭越しから眺めるようでは、伝わるものも半減する。

 そして、例え、その願いが、一つだけ叶うとしても、私は、躊躇なく、ヴィーナスを選ぶであろう。 ミロのヴィーナスは、かけがえのない私の青春の時を、呼び起こしてくれるから。


§§§ オルセー美術館 Musee d'Orsay
 オルセー美術館 は、セーヌ川を挟んで、ルーヴル美術館とほぼ対面したところにあるから、歩いていける。 昔の駅舎を美術館に改造したことでも有名で、私は、そちらに気を取られていた。 そして、見たことのあるゴッホやセザンヌの絵もさることながら、見逃したものというか、後で知って残念に思っていることの方が大きな位置を占めている。 人間の心は不思議なもので、観てきたことよりも、見逃してきたことの方が大きいということである。 オルセーと聞けば、他のものはさておいて、直ぐ、そのことを思い出す。

 テレビで観た、女性の彫刻家の話である。 名前も忘れたが、その彼女の作品が映し出されていた。 観たような気もするから、多分、目には入っていたのであろうが、観てはいなかったに違いない。 あの高名なロダンが彼女の才能を見つけ出し、彼女を弟子にする。 彼女はロダンに触発され、ロダンも彼女に触発され、互いに成長していくが、いつしか師弟の関係を超えてしまっていた。 彼女は身も心もロダンに捧げるが、一方で、ロダンばかりが評価されることに、不満がつのっていった。

 彼女の才能が、そのようにさせるのだろう、「ロダンは、私の技法を盗んでいる」 と思うようになって行った。 気が病んできていたのである。 実際に、そのようなこともあったかも知れない。 彼女は、それを嫌って、ロダンの元から飛び出して、独立するが、うまく行く筈がない。 次第に心の病が彼女を蝕んでいった。

 丁度、その頃の、彼女の作品が展示されていたのであった。 去っていこうとする男と、それを追いすがって止めようとする女の姿があった。 崩れ落ちて、なお、腕を伸ばす女の手は、僅かなところで、男の手にとどかない。 ロダンから教わった、粘土を細かく千切って、貼り付けていく技法が、さらに効果を上げている。 鬼気せまる中での、彼女の内面を写しているようで、心を打つものがある。

 美術作品は、直感で、好きも嫌いも、はっきりすることも多いが、作家の人生や背景や意図などの解説を聞いて、共感したりすることの方が、私は多い。 要するに観る目がないのであろう。
 
彫刻家 カミーユ・クローデル Camille Claudel 《引用》
 名前も知らないと書いたが、朝日新聞 (2005/11/26) 「傑作が生んだ愛の行方」 に彼女のことが紹介されていた。 名前はカミーユ・クローデル (1864-1943) という。 また、オーギュスト・ロダン François Auguste René Rodin (1840-1917) との出会いは、1883年 (82年説も) で、98年に破局が訪れた。 カミーユは、1913年、精神病院に収容され、死ぬまでの30年間を南仏の施設で過ごした。

 一方ロダンは、1917年、内妻ローズ・ブーレと結婚したが、臨終の床で 「パリにいる方の妻に会いたい」 とカミーユへの思いをもらしたという。

 カミーユの愛した弟、ポール・クローデル Paul Claudel (1868-1955) は、詩人で劇作家で、外交官だった。 そして、1921年から 6年間、駐日大使も務めた。 さらに、日仏文化交流の功績に対して贈られる 「渋沢・クローデル賞」 に、その名が残っている。

 そして、今、カミーユ再評価の動きが広がっている。 なかでも、カミーユの作品を70点も集めたり、また、研究もしたりして、40年になるという、ポールの孫に当たるレーヌ・マリー・パリス Reine Marie Paris さんが、彼女の美術館の建設が夢だという。 日本も、その候補地に挙がっていると言うから、その内に、観ることが出来るかも知れない。
 


§§§ パリのストリートミュージシャン
 美術館めぐりは、結構、体力を使うものである。 立ち続けであるからであろう。 オルセー美術館をでると、前の広場で、ストリートミュージシャンが、トランペットを吹いていた。 丁度、階段状になっていたから、腰を下ろして、休みがてら、演奏を聞くことにした。

 私たちが日本人と気付いて、「上を向いて歩こう」 を演奏してくれた。 フランスの、これらのミュージシャンは、概してレベルが高い。 地下鉄の連絡路での演奏は、オーディションをした上での許可制である。 ここから、メジャーへの道も、夢ではないという。

 更に、驚いたのは、メトロの電車内で演奏しているのを何度も見たことがある。 初めは、誰かがラジカセでも鳴らせているのかと思ったが、生演奏であった。 電車内は込んでいると身動きができないから、稼ぎも、効率が悪いと思うが、楽しんでいるのかも知れない。

 日本人は、特に大阪人は、芸術の分野に投資することに消極的であると聞いたことがある。 映画とか演劇とか音楽会への投資のことである。 ましてや歌劇などという分野は、日本では経営が成り立たないのであろう、皆、海外で活躍しているだけである。 これだけは、芸術の都でもある、パリにはかなうまい。

〔アンバサード Ambassade 泊 2004/04/17〕

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